はい
どうもこんばんは、いま僕はKから始まる例のアレを完全に放棄してこの記事を書いています。表題にもある通り"気持ちがなくなった"からですね。なぜ気持ちがなくなるのか、普段から自分の中でも煩悶するところがあり、とりあえず書いてみれば少しはマシになるだろうという楽観的な考えのもとで筆を取った次第です。各位に置かれましては個人的な備忘録であり、発達障害全般における話ではないことに留意しつつ、最後まで目を通していただければ幸いです。よろしくお願いします。
気持ちがなくなったってそもそもなによ?
まずは当然ここからですね。気持ちがなくなったってどういうことやねん?という疑問は僕を含めて関係各位全員がお持ちかと思います。僕なりに言語化をしてみると、"物事を行うにあたって、一定以上の労力が必要になった場合に、達成するための気力が失われ、必要な行動ができなくなる現象"となりました。大変わかりにくい表現ですね。要は行きたい大学があって勉強しなきゃいけないとか欲しいものがあって働かなくちゃいけないとか普遍的な状況において、気力が異常に減退し、達成に必要なパフォーマンスを発揮できないということです。こんなことは誰にでもあると言われれば確かにその通りですが、客観的に見ても僕の場合は些か常軌を逸しているように思います。
先天的な報酬に対するモチベーションの低さ
実例を上げていきましょう。これは実話なのですが、僕は五年以上前から父親との間で、ある一定以上の大学への合格を達成した場合に1000000円のインセンティブを得ることができるという約束をしています。高校を辞め五年近くブラブラしている息子が少しでもやる気になればという親心があってのことでしょう。しかし僕は一向にこの目標にたいして真剣に努力できたことがありません。他に求めているものもなく、自分の目指す方向に存在する目標であるにも関わらずです。これはなぜなのか、そう考えるたびに自分の先天的な報酬に対するモチベーションの低さを感じざるを得ません。
報酬に対するモチベーションの低さってなに
俺もわかんないです。長期的な努力が求められる一方で莫大な報酬が得られる仕事と反対に短期的な努力で済むものの報酬が少ない仕事の二者択一において、後者を選ぶ傾向にある傾向にあるとか色々言われていますが、明文化することが非常に難しい現象だと思います。強いて言うならば僕の場合は報酬を明確に想像することができない傾向が強く影響しているように思います。人生における報酬の殆どが形が見えない心理的なものを多分に含んでいるからではないでしょうか。金銭的に裕福であることと精神的な幸福が必ずしも直結するわけでないといった理詰めでは考慮できない部分を考慮できないあたりが発達障害という感じですね。
労力は理詰めである程度計算できるため見積もりが比較的正確な一方で、報酬は理詰めで計算し得ないために見積もりが実態より小さくなっているのかもしれません。
これは発達障害由来のものなのか、それとも人格に起因するものなのか
発達障害に詳しい方ならご存知かもしれませんが、発達障害者の中には先天的な脳の基質障害によって、報酬系統に異常を抱えている方が多く存在しています。近年の研究から、コンサータの投与が改善に寄与することもわかってきました。しかし、この報酬系統の異常は本当に発達障害に由来するものなのでしょうか?人格的に未熟なために起きている現象であるかもしれませんし、或いは報酬自体が僕が本当に望んでいるものではないのかもしれません。勿論、科学的なエビデンスを否定するわけではありません。かと言って、そういったエビデンスから全ての問題が発達障害に起因すると主張するのは非常に横暴であるとも思うのです。ましてや、このような人格的な問題と重なる領域において、すべてを発達障害のせいにするのは人間としてふさわしい行動なのか非常に疑問ですし、なにより僕の思想信条に大きく反します。
話が逸れましたが僕はこの問題が自分のどちらの部分に起因するものなのか、正しく見定められていない状態です。
当面はステラトラの服用といった科学的なアプローチと並行しつつ、人格的に治せるところをしっかりと認識して行動を律していくしかないと考えています。
終わりに
なんでもかんでも発達障害のせいにするクソ発達障害者共はいい加減その態度が発達障害の悪いイメージに繋がってることに自覚して。科学的なエビデンスに基づくアプローチがなんでもかんでも正解ってわけじゃないからな。終わり。