はい
とりあえずこの前のあさイチを見ました。これメチャクチャ身をつままされるような気持ちになりますね。雑感をダラダラ書いていきます。頭痛くて眠れないので。
発達障害児ってしんどい。
番組を見て、ついでに少しばかり自分のことを振り返ってみましたがこの一言に全てが集約されます。
番組をご覧になられた方はおわかりかと思いますが発達障害児は子供だから…という言い訳が一切通じないレベルにお気持ちで動きます。自分にも身に覚えがありますね。
どこぞのだれかなんかデパートに連れてかれたとき、到着早々アイスを食いたいとか駄々をこねだして暴れ散らかし、フードコートで食ったら食ったで即座に帰るとか言い出したらしいですよ。
極端な例かもしれませんが人格がまだ形作られていないときの発達障害児はかなり原始的な気持ちに基づいて動く傾向にあると言えるでしょう。さらに気持ちを実現させるために常軌を逸した暴れ方をするわけです。そりゃあさじを投げたくもなりますよね。
これらに加えて、一般的な叱り方が通用しないという事実がこの問題をより難しくしているように感じます。この場合の一般的な叱り方とは日常における生活習慣への注意とかそういうのですね。
一般的な叱り方が通用しないのはなぜか。それは発達障害児の中に両親は愛情故に叱っているという二律背反的な概念が根付きにくいからです。番組内で母親が直接叱ったあとに文章で愛情を伝えようとするも、子供に拒絶されていたシーンが良い例です。あのシーン、健常者の皆さんには理解しがたかったかもしれませんが、あの中には発達障害特有の白か黒かをはっきりさせたがる傾向が見られるのです。体験に対して一度発生した気持ちや見方を変えることが難しい傾向にある、と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか?
客観的、大局的な視点の欠落、および自分の考えへの拘泥などによって叱るという”行為”が極端にフォーカスされ、その結果として愛情故に叱ったという”動機”を理解することが著しく困難になっているのです。
この事実を踏まえてどのように発達障害児を教育していくべきなのでしょうか。
正直なところ僕には思いつきません。客観的な視点が抜け落ちた人間に対して客観的な視点の存在を認知させるのは極めて難しいと言わざるを得ないからです。さらに客観的な視点が抜け落ちていると、同時に教育されるべき規範意識や公共のルールといった概念も本質的な意味合いを失い、ただ表面上やらなければならないことに変質してしまいます。これでは、ただコンピューターにプログラムを打ち込むのとなんら変わりないでしょう。
結局のところ、様々なモノや体験を与えていく中で発達障害児の中に他者の動機や意図を理解しようとする気持ちが芽生えることを待つ、これ以外に親ができることはないのではないでしょうか。
終わりに
絶望の結論という感じ。こういった”人として本来生まれながらにしてなされているべき理解”が僕自身ちゃんとできてるかわからないし、この歳になっても未だに表面上の真似に終始している気がする。正直一生できないという気さえしてくる。
でもそれでも生きていかないといけないしやれるだけやるしかないのでね、適当に頑張っていきましょうというのが今日のお気持ちです。